あの時傷つけた友達の顔や、
恋人と過ごした時間の匂いや、
学校帰りに歩きながら食べたコロッケの味や、
女友達のきれいな足の形や、
片想いした彼の深いため息や、
上司の緊張する声の震えや、
ひそひそと内緒話する同級生の吐息の熱さと耳元のくすぐったさや。
心に残る色々は五感と重なって私を形つくる。
そういった懐かしくも大切な誰かとの思い出はたくさんあれど、心にくっきりと輪郭を残す言葉の思い出は、数少ないように思う、私にとっては。
どんぶらこどんぶらこ、と遠い国から私のもとへ偶然流れ着いてきたようなはかなさで、しかし水中からひきあげたとたんしっかりとした重みと手触りを持って私の中で燦然と輝く言葉。
それは思い出のなかでも特別で、足元揺らぎ迷い見失ったとき、遠くでチカチカと瞬く灯台のような存在だ。
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:君はいつも実体験から文章を書くのだね、その姿勢は美しいと思う
受験生だった私に、小論文の予備校講師が言ってくれた言葉だ。
東大の大学院生だったと記憶しているが、歯に衣着せぬものいいと、180はゆうに超えたがっしりと大柄な体躯が印象的な先生で、正直おっかなかった。怖がりながらもこの先生に認められたいと夢中で文章を書いた。点数も評価もひどく辛口だった男性講師に言われたこの言葉は、私の胸に星のように輝き、今も励まされている。あの時は気がつかなかったけど、ちょっと恋のようなものだったのかもしれない。
:自分の命よりも大切な存在があるって、何よりも幸せなことよ
息子にどうやら障害がありそうだ、と打ち明けたときに、年上の友人(親と子くらい歳が離れている)がさらりと言った言葉。
この言葉はドカン、と私の横っ面を殴った(ような衝撃だった)。
こんなこと、理想ではなく本当にそう思って生きている人にしか言葉にできない。
この人は(外交官の奥方として海外で3人の子供を立派に育て上げた方だ)こうして子育てしてきたんだと思うと、当時の私の悩みはささやかなものに思え、息子の障害についてもすんなりと受け止められた。泥の中にいたあの時期に贈られた、奇跡のような言葉だと思っている。
:これらの本がいつかどこかのタイミングであなたたちを救うことになるかもしれない
古文の先生が、当時高校三年生だった私たちの最後の授業に、何冊か本を選んで紹介してくれたときの言葉だ。
中年ではあるものの朗らかな笑顔の若々しい先生で(今思えば現在の私より年下かもしれない)それぞれのおおまかなストーリーを説明してくれた後、先生はそう言った。
私は紹介された本の中から、特にタイトルが印象的だった「風葬の教室」を本屋で買い求めて読んだ。
古文の先生が紹介するにはちょっと意外な物語だったが、確かに、あるときあるタイミングで私を救うことになるかもしれないと思った。
それになにより本を紹介したときの先生の言葉は、18歳だった私の、ものの見方を変えた。だれかが書いた世界が、描いた景色が、見せたいと思って作ったものが、どこかのだれかを救うことになるかもしれない。創作する行為そのものに意味があるのかもしれない(ちっぽけな私が作ったものであっても)と思った瞬間だった。
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ここぞというときに励ましてくれた言葉は、どれも年上の、当時の自分からみた「おとな」からの贈り物だった。
そして、想像していたよりずっと情けないけれど、私もいまや年齢的には立派な「おとな」なのであった。
息子や甥っ子が10代になり、それにつれて関わる子どもたちも大きくなった。
自分もそうだったように、彼らは上手にいろんなものを隠せるようになったし、また感情を表に出さない術も習得し始めた。
瞳を覗き込んでも、その気持ちが読めないこともしばしばだ。
そんな彼らを見ていると、自分の混沌とした10代を思い出してしまう。
あの時救われた言葉や、傷つけられた言葉。欲しかったけど与えられなかった言葉。
だからこそ、おせっかい極まりないことを重々承知しながらも「おとな」はもっとこどもたちに語りかけるべきなんだと思った。
白々しい言葉として受け止められずつるつると滑っていったとしても、彼らの胸にこつんとも響かなかったとしても、どんなかたちでも伝えていくべきだ、真摯な態度でもって。
眩しい時間の中に生きている限られた日々の大切さを、
好きなことに夢中になっていいんだという励ましを、
綺麗に飾られた言葉の裏側にある気持ちを、
それがたとえ目を背けたくなるほど醜いものでも、あなたの愛しい一部だと。
誰かひとりにでも届けばいい、このお節介おばちゃんの言葉が。
チカチカと遠くで光っていることに、気がついてくれるだけでいい。
と思いながら元来口下手な私は、ひとり言葉を書き散らかし、そこから絵を立ち上げ、手作りの小さな本を自己満足げにほそぼそと作っている。