空気をたべる人

先日、息子の通う放課後ディサービスで面談があった。
そこで担当のS氏は、息子のことを「空気をたべる人」と言った。
空気を食べ、消化し、表現する人。
感受性が豊かな息子にくれた言葉だった。
空気を食べるのだから、なるべくあたたかな、おだやかな、美味しい空気を与えていきたいと思っています、とS氏は結んだ。

空気をたべる人に、美味しい空気を与える人。
私は息子にとってその人になりたいと思った。
人一倍人見知りが強く、空想のなかで生きているような生きづらい子供時代だった私も、美味しい空気を食べることで救われていたからだ。
私にとってのその人は祖父だった。
毎年夏休みに祖父と過ごした一ヶ月が、今の私のほとんどを作っていると思う。

母方の祖父母は、京都の北区に住んでいた。
悟りの窓で有名な源光庵から徒歩十五分くらいの場所で、静かな住宅街だ。
うなぎの寝床の細長い敷地に、軽トラックが入る駐車スペース、ずらりと大工道具が壁一面に並び(祖父は大工だった)、お風呂を沸かすための薪になる木材が1箇所に集められていた。
奥の和室は客間になっていて、夏休みの間の一ヶ月は私はそこで眠る。
いつ行ってもその部屋は静かでひんやりとしていて、線香のいい匂いがした。能のお面がふたつかけられていて、ぼんぼんと鳴る壁掛け時計があった。幼い私はそのお面と時計の音が怖かった。

祖父は子供の心を掴む天才だった。
私を含めて5人の孫がいて、夏休みに集合する。
川遊び、花火、真夜中の山に入ってカブトムシ探検隊、公園でありとあらゆる虫を獲ってきては締め切った部屋に全てを解き放ち、薪を割ってお風呂をわかす。全てが新鮮で色鮮やかな夏。
そんなとき、祖父はふっと姿を消すのだった。忽然と。
孫たちは「どこいったどこいった」と探しまわる。
おとなたちは心得たもので、にやにや笑いながら「さ~しらんなあ」とやり過ごす。
そのうち、5人の孫のうち、ひとりが消えている。
数時間後、消えた孫と祖父が何食わぬ顔でふたり揃って帰ってくるのだった。
その手にはおもちゃの大きな箱が抱えられていたり、かぶとむしのはいったかごを持っていたりする。
それは毎年のように繰り返され、だんだん孫たちも「あ、あれだな」とわかってくるのである。

ある年の夏、なかなか私に声がかからなかった。
ひとり、ひとりと消えてはおもちゃを抱えて帰ってくるのに、私は呼ばれない。
初孫でいちばんかわいがられていたこともあって、やきもちでぱんぱんに膨れ上がりそうな私だったが、最後の最後、夏の終わりに声がかかった。
「あきこ、あきこ」といつものように隠れた場所からささやくように声をかけてくる。
きた!と私は祖父に飛びつくと、トラックに乗せられた。

出かけた先は、高原のような公園のような、広くて高低差がある緑豊かな場所だった。そこがどこだったのか、今は知る術もない。
鮮明に覚えているのは、一緒にソフトクリームを食べたことだけだ。
祖父はバニラをえらび、私はいちご味をえらんだ。
坂の上のベンチに座り、クリームを舐めとりながら眩しくひかる芝生を二人並んで眺めた。
祖父はがぶり、がぶりとソフトクリームをかじりとるように食べた。
私はぺろぺろと舐め、コーンがふにゃふにゃになっていくのを焦りながら食べた。
祖父はやけに無口で、ソフトクリームを食べ尽くしたあとは、もたもたと食べる私を見つめて微笑み、いつもの冗談やおどける様子もなくて私はとまどった。
他の孫たちとは一線を画したこの場所に優越感を覚えつつも、同時にあまりに様子の違う祖父に、なんとも居心地の悪い気持ちにもなっていた。
祖父が私をどうしてここに連れてきたのか、幼くて、知らないことが多くて、わからなかった。
今も時折、あのときの祖父のソフトクリームにかぶりつく横顔、遠くを見つめる横顔を思い出す。

夏の夜のおさんぽにもよくでかけた。
祖父と私の長い影が街灯に照らされて二重、三重に広がり、伸びて縮む。
月がついてくるよ、と教えてくれたのは祖父だった。
月を見るために夜咲く月見草の話も。
大文字の送り火を一緒に眺めた、つないだ手のひらの感触。
祇園祭の人混みで抱き上げてくれた大きな背中。
おでかけとなると、これみよがしに少ない髪を丁寧に櫛削り、おどけてみせる(髪の毛ないやん、という祖母のつっこみつき)。
蚊にくわれると、腫れたところを爪で十字に切ってくれた。

私が小学5年生のとき、祖父は体のあちこちを癌に蝕まれ、亡くなった。
もしかしてあのソフトクリームの日、祖父は自分の病状を知っていたのかもしれない。
こどもの記憶のため時系列がめちゃくちゃで憶測でしかないが。
そして私はなぜか、頑なに骨を拾うことを拒んだ。
今も幼かった自分自身の気持ちを整理できないでいる。
孫たちみんなが骨を拾っているころ、私は外で煙突と空を眺めていた。

たまごをおとしたカレーライス。
まっぷたつに切ったスイカを丸く掬い取って食べる。
お腹が痛いと出てくるありえないくらいすっぱい梅干しの薬。
お菓子が配られる地蔵盆。
肩を抱かれて聴く夜の物語。
いっぷくいっぷく、とたばこをくわえる顔。
虫刺されを十字に切る大きな手。
ふたりきりのソフトクリーム。
夏の終わりの山のひかり。

全て、祖父との夏の思い出のかけら。
美味しい空気をくれた人。