梅雨の日

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雨が降っている。
縁側に揃えて置いたスニーカーに、水が溜まっている。
そこに雨がわっかをつくる。
わっかのなかに細い線がいくつも走っている。
ぴちっと音がして、スニーカーから何かが飛び出した。
赤い小さな魚だった。
ぴちっぴちっと飛んでいく。
引き寄せられるように追いかける。
ためらいなく水がたっぷりたまったスニーカーに足を差し込んで走る。
雨水とスニーカーが作り出す抵抗に負けまいと、必死で追いかける。
じゃぶじゃぶと騒がしい音をたてながら。
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雨が降っている。
しとしとと降り続く雨で、古い畳が放つ独特の匂いが満ちる我が家の小さな和室にどうぶつたちが車座になっている。
熊や犬や猫やきつねや、ウサギやリスや。
死んだような目をしてまんなかを見つめている。
どうしたのかとのぞきみると、おおきな蜂蜜の瓶が中央に置かれていて、そこにカブトムシがはりつき独り占めしていた。
ほほう、とうなずき、花柄の傘をさし買い物に出かける。
帰ってくると、はちみつの瓶はこなごなにくだけて、かぶとむしはただの黒い物体となって蜂蜜の海に浮かんでいた。
とことことやってきた母が、その黒いものをぽーんと蹴飛ばした。
・・・

雨の季節に見る夢は、色鮮やかで、なかなかに奇妙だ。

まるで映画のように、多角的な面から捉えた映像が脳裏に残り、主観ではなく登場人物それぞれの思考が流れ込んでくる。
ごく普通の脳みそと平凡な性格の私から生まれているとは思えない奇抜さで、もしかして寝ている私の耳元でだれかがひそひそと物語を囁いているのではいかと思うことがある。

思い出すのは祖父だ。
夏休み、まるまる一ヶ月京都の母の実家で過ごす幼少期、毎晩のように祖父の腕を枕にして、物語をきかせてもらった。
祖父の話はおもしろかった。
嘘と本当が入り混じり、私は嘘を本当と思い、本当を嘘と思った。
今でもよく思い出す話は、戦争中のお話だ。

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へいたいさんになって、ひこうきにのった。
ひどいあらしにあった。
ひこうきがついらくするんじゃないかと、はらはらしながらまどからそらをみた。
そこにはおおきなおおきなくもがふたつ。
ひとつのくもはびかびかといなびかり、らいじんさまがのっていた。
もうひとつのくもはびゅうびゅうとおおきなおとをたて、ふうじんさまがのっていた。
おじいちゃんはな、ふうじんさまとらいじんさまにてをふって、なかよしになった。
あらしはいつのまにかすぎさっていた。

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へいたいさんになって、ちゅうごくにいった。
ちゅうごくで、どうしてもどうしてもおしるこがたべたくなった。
たべたいとおもったら、ねてもさめてもおしるこのことしかかんがえられない。
なかまのへいたいさんと、まいにちおしるこのはなしをした。
みんなどうにもたまらんことになって、ちゅうごくののうかのひとに、あずきをゆずってくれないかとおねがいした。
あずきはないけど、にたようなみどりのまめがあるといわれ、それをもらってきて、みんなでにた。
おさとうはたっぷりいれられなかったけど、それはそれは、ほくほくとおいしいおしるこができて、のうかのひともへいたいのなかまもいっしょになってたべた。
あんなにおいしいおしるこはあとにもさきにもたべたことがない。

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祖父は私が小学5年生のときに大きな病にかかり、ほどなくして亡くなった。
亡くなる前、まだ入退院を繰り返していたときに手紙をもらったことがある。
茶封筒と味気ない便箋には、祖父の几帳面な字が並び、メッセージもなにもなく、ただ物語が書いてあった。
その物語は、姉妹が病気の母のために、京都の山深いところにある伝説の泉の水を汲んで来て飲ませ、無事、やまいを癒すことができたという物語だった。

今思えば、飛行機の話も、おしるこの話も、泉の話にも、こどもにはっきり聞かせられないような祖父の思いが見え隠れしているような気がする。
そしていまも、祖父は私の肩を抱いて、毎晩ひそひそと物語をきかせてくれているのではないかと思う、私のために。

その夢の尻尾のような、残滓のようなものをつかまえることで、私は描き、漉くことを躊躇わずにいられるのです。