春の日

わたしは少し、狂っていたと思う。
あの日。
あの、9年前の春。

長い冬を越えて、さまざまないきものの命の喜びが溢れる。
あたたかな日差しや、風の運ぶ花の香り、桜の淡い色景色。
それらを楽しむことも忘れて、わたしは情報をいち早く手に入れたくて始めたツイッターにしが
みついていた。
出産後もコツコツと制作に励み、紙を漉くことができないときはスケッチブックいっぱいにアイ
ディアや文章を書きためていたけれど、この時ばかりは、完全に手が止まった。なにも考えられ
なくなった。
良いニュース悪いニュースに振り回され、ただただ、不安と恐怖をあたりにまきちらすことしか
できなかった。
目に見えないものとの戦いに、わたしの心は日に日に病み、勧められるがままに変な石を買って
みたり、あやしげな話に心囚われ、これがいいときけば試し、あれがいいときけば試した。
毎日のように揺れる大地におびえ、断水と停電の日々。

息子は、そんな日々でも花が咲くようによく笑った。
その愛らしさでわたしを母親として育ててくれた。
1歳になったばかりの、大切な息子の未来を守りたい一心で、わたしは半分狂いながらも肩と足
にぐんと力を込め、必死で立っていた。
お風呂場でひとりになると、気が抜けてめそめそと泣いた。

毎晩のように、怖い夢をみた。
ちいさな息子と猫2匹を何かから必死で守る夢を。
それは爆弾のようなものであったり、落下する飛行機であったり、交通事故であったり、緑色の
魔物が吐き出すスライムみたいなものであったりした。
必死で息子と猫を抱き寄せ、そのなにかから身を挺して守ろうとするのだけれど、わたしだけ助
かり、ひとりと2匹は私の腕からさらさらとこぼれおちてゆくのだった。

もう精神的に限界かもしれない、と我ながら感じていたときに、知人であった和紙作家のハタノ
ワタルさんが京都においで、と声をかけてくれた。
見るに見かねたんだと思う。
それまでのわたしならば、そのような優しい言葉をもらっても、きっと甘えることはしなかった

人様に迷惑かけないように、人を頼らず自分で解決しろというのが西村家の教えであったから
だ。
でも、わたしはその優しさにしがみついた。
息子と、わたしの妹と3歳の甥っ子を連れて、京都の綾部まで電車を乗り継ぎ、一時避難した。

笑顔で迎えてくれたワタルさんと奥様のユキさん、そして元気なこどもたちに、ほっとしたこと
を覚えている。
夕飯一緒にたべようや、と古い大きな一軒家のご自宅に案内してもらい、そこでいただいたレタ
スのサラダとおじゃこの厚揚げの味は今も忘れられない。
驚くほど新鮮で甘いレタスはさらっとレモンのドレッシングがかけられていて、ボールごと抱え
て食べたい美味しさだったし、おじゃこの厚揚げは豊かな旨味で身体中が満たされた。

そのあとワタルさんは、仲間たちと東北へボランティアにいく、と車に野菜やら食材を詰め込ん
で旅立っていった。
こども3人置いて、旦那さんにそんな危なっかしいところに行かれるなんて、わたしなら心配だ
し不安だし引き止めてしまいそうだが、ユキさんはそれを応援して送り出していた。
お人柄もお仕事ぶりも本当に尊敬するハタノさん、それを支える奥様と子供達はあこがれの一家
だ。

それからワタルさんに紹介してもらった綾部市里山交流研修センターで5日間寝泊まりさせていた
だいた。
自炊ができ、洗濯ができ、大きなお風呂があり、体育館もあった。
それ以外になにもない、山に囲まれた静かな場所だった。
暗闇が正しく真っ暗だった。
それがありがたかった。
出会ったおばあちゃんに大根1本もらった。
優しい言葉がきちんと胸に染み込んだ。
小高い丘の上で風の影をみた。
やま、ってなあに、という甥っ子に山を教えた。
ミルクを一生懸命飲む息子の顔を見て、ちゃんと愛おしさが増した。
ひさしぶりに和紙造形で描きたいものが生まれて、じわじわと心を満たした。
ガッチガチに力が入っていた体がゆっくりとほぐれ、わたしはわたしをとりもどした。

この春は、あの綾部での時間を思い出す。
あのとき人々の優しさに甘えたことが、のちのち息子の障害がわかった時の苦しみを乗り越える
力になった。
困ったら頼っていいんだと、甘えていいんだと教えてくれた。
自分で考えることの大切さを知り、覚悟を決める強さも僅かながら得られた。
そして今まで以上にしたたかに生きよう、とあのとき決意したのだ。
あるときは注意深く、ある時はカンを働かせ、
誰かの意見を素直に聞き、かといって鵜呑みにはせず、
いざとなれば逃げ足はやく、普段はガハハと笑っている、
そんな母親になるのだと。