土の顔

小さい頃に度々、知らないおじさんが家に来ていた。
そのおじさんはいつも声が大きくて僕は少し怖かった。
鍵の掛かっていない玄関の引き戸をがらがらっと勢いよく開けて
「おーい、まーちゃんいるかー」と家中に響く声で叫ぶのだ。
大抵は母が応接していて、裏の畑に居るんじゃないかしらと案内したり
まーちゃんがいる時にはそのまま上がり框に腰掛けておしゃべりが始まるのだった。
僕は柱の陰からそっと覗いてびくびくしながら二人の姿を見張っていた。
日に焼けた真っ黒の肌のなかに、笑ったときの白い歯が光っていた。
まーちゃんとたかよっちゃん。
仲の良い二人だった。
それから20年近く経って、まーちゃんは先に旅立った。
四十九日の会食の席で酔っ払って大きな声で笑ってる人がいた。
もちろん、たかよっちゃんだった。
僕は親族の席からその様子を見ていた。
お寺の外まで響き渡る声だった。
遺影をみると、まーちゃんも笑っていた。
お酒が好きな人だった。
僕が学校から帰ると、コックピットのようないつもの席に座って一杯始めているのだった。
鮪のぶつや蕗の煮たものなんかをつまんで、最初はだらりと静かに相撲を見ていた。
結びの一番の頃には最高の仕上がりになってきて、もう結果なんてどうでもいいらしく
陽気にはしゃいだり、孫たちに話しかけたりして楽しそうだった。
いつもは寡黙な祖父の顔がゆるんでいると家族の時間も一緒にゆるんだ。
ときに酒に呑まれて廊下に座り込んでしまい、母親に叱られたりもしていた。
僕は隣でその様子を見ていて、なんでこんなものを飲むのか不思議だったけれど、今なら身に沁みて分かる。
晩年、病気を患ってからはお酒を止められてしまい、それと同時に笑顔も一緒にしぼんでいってしまった。
あの陽気に笑っている祖父と、一度でいいからお酒を一緒に飲みたかった。
赤いラベルに琥珀色のウィスキーの入った大きなボトルを抱えて。
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土で等身大の人の顔を作った。
それを山で焼きたいと思った。
しかし近くの山は焚火が禁止されていて遠出をしなければならなかった。
車でこの土の顔を壊さずに運ぶのも自信がなかったし
雨が続いていたので薪になるような落ち葉や枝もきっと湿っているだろうと思った。
何かこの流れには無理がある気がしていた。
どうしようかと考えていたら、ふとある人の顔が浮かんだ。
たかよっちゃんだった。
たかよっちゃんは自分の田んぼと畑を持っていて
今でもよく籾殻などを野焼きしているらしく、時々煙があがっているのを見かける。
早速、アトリエから目と鼻の先にある畑に出向いて野焼きのお願いに行った。
たかよっちゃんは快く承諾してくれて
「そんなら燃しかた教えてやんよ」
と言って一緒に焼くことになった。
もちろん土を焼くのはお互い初めてだったが、なんとかなる気がした。
そしてもう一人、僕の中で顔が浮かぶ人がいた。
だいちゃんだった。
だいちゃんは僕の友人であり写真家であり、今度岡山で二人展を行う同志でもあった。
数年前に初めて彼の作品展に行ったとき僕は彼の撮る火に魅せられた。
夕暗がりの青い海岸のなかで、燃え終わって消える、その寸前の微かな残り火がオレンジ色に小さく輝いている写真だった。
吸い込まれた。
水と火が同居し、まるで生命の終わりと始まりの境目に立っているような気持ちにさせてくれる写真だった。
僕は彼に野焼きの火を撮ってもらいたいと思った。
もし土の顔が割れたり、破裂して粉々になってしまって、彫刻として成り立たなくなったとしても
彼がそれを撮ってくれさえすればそれで充分だと思った。
早速彼に連絡をとった。
「それなら写真より映像で残したい」
彼は一つ返事で承諾してくれた。
こうして僕とだいちゃん、たかよっちゃんの三人で野焼きをすることになった。
なんだか小学生の頃の遊びのメンバー集めみたいだった。
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その日は快晴だった。
映像を撮るには少し光が強すぎるくらいだった。
僕たちはアトリエで一服し、曇って来るのを待った。
昼下がりのまどろみが訪れる頃にようやく雲が陽を隠し始めた。
僕は土の顔を両手に抱え、だいちゃんはカメラを持って、いざたかよっちゃんの畑へと向かった。
三人とも野焼きで土を焼くのは初めてだったので誰も段取りがわからない。
でも不思議と自信だけはあった。
なかで空気が膨張して爆発するかもしれない。
それもいいなと思っていた。
どう転んでも面白くなると思っていた。
僕の考えでは低温でじっくり焼いたら上手くいく気がして、まずは残り火の状態を作ることにした。
たかよっちゃんの指揮の下、底の抜けたドラム缶を立てて
その中に薪になる木をどんどん放り込んで燃やした。
「すごい火力ですね。」
「おう、下が掘ってあんからよ、空気が上へ昇って行くんだよ。」
「上昇気流ですか。そういえば煙もあまり出ませんね。」
「火が強ければ煙なんて出ないの。あっちゅう間に蒸発しちまうんだからよ。
昔はなんでも燃やしたなあ。今は燃えにくいもんばっかだろ。土に還らねえんだ。」
僕たちは黙って空を見上げた。
赤黄色の炎が代わる代わる立ち昇り、透明な気流が空を歪めていた。
___

突然、雨が降り出した。
バケツをひっくり返したというよりもプールをひっくり返したような強い雨が体を打った。
ドラム缶の中で勢いよく燃えていた火にも容赦なく降り注いだ。
僕らは慌てて熱くなった大きな筒を何とか横に倒し、その中に作品と藁を入れて火を絶やさないように努めた。
乾いた藁はすぐに燃えたが、雨の湿気が侵入してくるとまた消えそうになる。
僕は絶えず息を吹きかけ風を送った。
だいちゃんはそれをずっと撮ってくれていた。
辺りはもう真っ暗になっていた。
光源が必要だったのと生焼けにしたくなくて、精一杯息を送った。
煙で目が痛くなった。
炎に近寄りすぎて気持ちも身体も熱くなっていた。
轟轟と叫び続ける黒い豪雨の中で沈黙の白い火を抱きかかえるように守った。
祭だった。
生命全体が踊っていた。
火と水と風と土とが僕らを包んでいて、個を感じながら全を感じるような感覚だった。
縄文の時代に土を焼いた人もきっとこの気持ちに襲われただろうと思った。
人が自然の力を借りて何かを生み出すときの歓びだった。
と同時に何故かおじいちゃんと畑で焼き芋をした小さい頃の記憶にも似ていた。
悠久の刻が訪れていた。
ふと気がつくと、たかよっちゃんの姿がなかった。
いつから居なくなったのか分からなかった。
きっと雨が降り出したときにはもう、危険を感じた鹿のように走り出していたのだろう。
次の日の朝、何食わぬ顔で畑にやってきて
「焼けたかあ?」
と無邪気な顔で問われたので
「最高です」
と答えて黒く焦げた顔を見せた。
土色の顔に白い歯が光った。