秋の日

大好きな秋がきた。
息子とどんぐりを蹴飛ばしながら歩く。
落ち葉の海をがさがさ歩く。
空に響くのを確かめるように、彼は、あ、と声をあげる。

あき、の、あ。

あそぼう、の、あ。

あんぱん、の、あ。

あお、の、あ。

息子は「あ」をもっている。
「あ」が彼のすべて。

息子を産んだことで、私の世界は一変した。
ふわふわと生きてきた私には、なかなか強烈な一変具合だった。
誰にもさまざまな一変の瞬間があり、そこでみんな、自分と戦い見つめなおし、向き合う機会を与えられるのだろうと気がついた。
私にとっての一変が、自閉症を携えてやってきた息子の存在だったということだけだ。

息子と出会うまで、障害をもったひとというのは、例えば小学校で毎年買う障害者アートのポストカードセットであったり、町をふらふらと歩く謎のおじさんだったり、中学校にあった障害児クラスの同級生たちであったりした。

ある日私のクラスに編入してきた耳の聞こえない女の子とは、少し交流もした。
サイモン&ガーファンクルに夢中な少々渋い趣味の中学生だった私は(同級生はアイドルの男の子たちに夢中だった)彼女にレコードから落としたカセットテープをプレゼントしたり、漫画みたいな絵を描きあったりした。
彼女は耳が聞こえず、白のような肌のような微妙な色の補聴器をつけていた。
言葉もおぼつかず、知的にも遅れがあるような女の子だった。

筆談した字、舌の回らない彼女の言葉、声、ほおのあたりに手を添える仕草。
妙に記憶に残っている。

一度だけ彼女の家に友達数人で遊びに行ったことがある。
涙を流さんばかりに喜んだ彼女の母親。
またあそびにきてね、とずっとずっと見送ってくれた。
彼女と母親の長く伸びる影。
なにかにつけて、ふとしたときに思い出すそれは、私の胸をほかほかとあたためた。

大学生になると、楽しいことがいっぱいでそんなことも思い出さなくなっていたが、
あるときバイト先での世間話のなかで、大学生の男性が「バイトのあと足が疲れきってもう立ってられないとき、優先席のまえに立って、障害者のフリをするんだよ。あ~あ~って。そうするとそそくさと逃げてくから」と言った。
その場のみんなはワハハ、と笑い、その笑いは彼の物真似が可愛らしかったことが大きかったが、私はもやもやと曇った。
耳の聞こえない彼女の、言葉にならない声をふっと思い出した。
でも、私はみんなに合わせて、笑った。

あの罪悪感を、先日また、ひさしぶりに思い出した。
息子の通う放課後ディサービスに、アルバイトに来ている大学生の女の子から手紙をもらったのだ。
丁寧な字がぎっしりと並んだその手紙には、息子と私との出会いが彼女の人生の岐路に影響を与えたことが書かれていた。
あの日、夕陽に照らされた彼女と母親のように、私と息子がだれかの胸をほかほかとあたためることができたのかもしれない。
嬉しいと同時に、罪悪感が波のように襲ってきた。
私は、あのとき笑ったのに。
笑ってしまったのに。

それから、息子の成長を感じるたび、ちく、ちく、と罪悪感が針のように私の胸を刺すようになった。
息子はこのさき、自閉症の青年としてすくすくと成長し、もしかしたらだれかに謎のお兄さん、変なおじさんと思われるかもしれない。
だれかにその不思議な行動を真似されて、笑われる日がくるのかもしれない。
それはかつての私だ。
息子がそのことに気が付かなければいいと願う。
たくさんのひとに愛された記憶だけで生きてくれたらと願う。

息子はいま、「あ」だけを持っている。

「あ、は世界に開いていく音ですよ。
この世界の不思議に、美しさに、感嘆する音ですよ」と友人が教えてくれた。

一見閉じているように見える息子は、本当はいつだって、この世界に開いているのだ。

あき、の、あ。

あさ、の、あ。

あした、の、あ。

あめ、の、あ。

あいしてる、の、あ。