鮮やかな世界を

コップから水を飲む
コップの底にそっと耳にあてる
とんとん、と指ではじく
視線が宙をさまよう
それから耳を離して
私を見てにっこりとわらい
あー、という

薄暗いアトリエのドアを開けると、水のにおいがする。
ガタガタとがたつく古い雨戸を開けて、空気と光をいれ、お湯を沸かす。
来客がある日は簡単に掃除をして、そうでないときは掃除をさぼる。
沸いたお湯でコーヒーを入れ、飲みながら庭に出て、草花の様子をパトロールする。
今日は何にしようかプレイリストを眺め、音楽をかける。
壁に貼った下絵と型紙を確認し、冷蔵庫に保管している材料を出す。
簀(網のようなもの)を洗い、定位置にセットする。
残ったコーヒーを飲み干し、そして、コップをはじいていた今朝の息子の顔を思い出す。
さて。

産院の壁面装飾の仕事をいただいた。
かなり大きな壁一面を任され、私の手製絵本(ねんねの森)をテーマに、ということだった。
ねんねの森は、赤ん坊だった息子に歌った自作の子守唄に和紙造形作品をつけたものだ。
こどもにまつわる仕事はいつかやってみたいと思っていたので、お話をいただいたときは本当にうれしかった。
あかちゃんが生まれ、育つ場所。
お母さんが大仕事を終え、つかのまの入院生活を送る場所。
ときには命に関わることもある、そんな場所。

私がお世話になったのは、こじんまりとした市川の産院だった。
院長がもと麻酔医というちょっと変わった経歴で、無痛分娩を推奨していた。
無痛分娩は普通の出産+αでかなりの出費負担になるところが、ここは推奨しているだけあってどこよりも安かった。
「普通分娩は痛いよぉ~」
「女性が陣痛で人が変わったようになるのが、僕はこわいんだよね・・・」
「冷静に産めるの、いいよ~」
と、とにかく無痛分娩をすすめてくる、文学少年が大きくなったような院長だった。
ほっそりとして、いつも文庫本を手に持っていた。
暇さえあればめくっているにちがいなかった。

初産の場合は途中で出産が止まってしまう場合があるらしく、ギリギリまで麻酔をいれてもらえない。
陣痛が進み、もうあともどりはできない、というタイミングでようやく麻酔をいれてもらえる。
そのため私は暗い陣痛室でひとり、うんうんと陣痛の痛みをこらえながら静かな雨の降る夜を明かした。
麻酔が入るとうそのように痛みがひき、同時になんの感覚もなくなるので、今度はいきむのに苦労する。
力がはいらない。
最終的には看護師が私のお腹にのっしりと乗り、その圧力でなんとか息子を産み落とした。

息子がこの世に誕生した瞬間、私の視界はキラキラとまたたき、それはそれは眩しくて涙がでた。
看護師たちが「泣いていいのよ、おめでとう、おめでとう」と手を叩きながら祝福してくれたが、私は眩しくて泣いているのか、嬉しくて泣いているのか、よくわからなかった。
今思い出してもあの輝きはなんだったんだろうと思う。
暗くて生暖かい腹の中から、いきなり光あふれる世界に放り出された、息子の視覚を感じ取ったような気がしている。

この産院は母子別室で、お世話の時間が来ると赤ん坊を迎えにいく仕組みだった。
夜ゆっくりと眠り、ぼんやりと窓の外を眺め、のんびりと食事をとる。
来たる日々のために、とにかく体を休める。
離れた部屋で、酒焼けした親方みたいな顔で寝ている息子のことを思った。
ひよひよと泣く、小さな宇宙人みたいな赤ん坊たちのなかで、息子だけどっしりと異彩を放っていた。

あっというまに11年経ってしまったが、あの産後の5日間をいまでもありありと思い出せる。
飾り気のない部屋で夕暮れがやってくると窓の外を眺め、暗闇が深くなり遠くの街がキラキラと輝き始めるのを見ていた。
とても特別で、人生のなかの限られた時間だった。

産院のお話をいただいたとき、一番にこの5日間を思い出した。
退院後不安な子育てがはじまり、おっかなびっくり抱いていた我が子が表情豊かに泣き笑い、腕の中にしっくりとおさまるころ、「ねんねの森」という子守唄が生まれた。
気負いなく、ただただ自然に。
ぽろぽろと口からこぼれた。
赤ん坊だった彼に歌わされたんだと思っている。

息子は私にとって、想像と出会いの入り口だ。
産院の仕事もこの子守唄でいただけたようなものだし、彼と生きている私にだからこそやってくる仕事も増えた。
こうして文章を書かせてもらっていることもそのひとつである。
そして、日々の生活のなかから生まれるかたちもいろも、息子とだから見えてくるものだ。

私は障害を持って生きる息子を懸命に守っているような気になっているが、それは逆なのかもしれないと思う。
生まれ、生きてくれているだけで、私をずいぶん励ましてくれているのだと思う。

毎日、制作に向き合うときに彼の顔を思い出す。
肩の力が抜ける。
ほんの少し、世界が鮮やかに見える。
コップをはじく音が輪のようにひびき、かたちとなって色づき、私のまえにあらわれる。