「大きな食器棚」クロヌマタカトシさんより

その本の始まりの一文には、全てが込められている。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」

「えたいの知れない不吉な塊が私の心を終始圧えつけていた。」

川端康成も梶井基次郎も、この一文を生み出すだけでどれだけの時間を要しただろうか。
想像もつかない。
日常の水面下にある意識と無意識の境界で、熟成された思考が堆積し、ある時に小さな気泡になって昇ってくるように、瑞々しくも時間を帯びた言葉がそこには現れているように思う。
はじめて空気に触れるような、著者自身も知らない新しい言葉がそこにはある。

「春の日、おばあちゃんはしんだ。」

稲垣早苗さんの新著はこの様に始まっている。
何気ない始まりの一文で、一見すると誰にでも書けるような文章に思えるが、僕はこの一文に感銘を受けた。
なぜなら死というものが、その重さを残したまま、鮮やかに軽やかに描かれていたからだ。
それは死というよりも、無になることへの著者の日々の思考の蓄積なのかも知れない。
あとがきでその秘密の一部が明かされるが、おそらくこの思考の堆積は一朝一夕のものではないだろう。
そしてこの本で扱われる無には、明るい光に満ちた清々しい風が吹いている。
死は重く暗い面を持ってはいるものの、それが全てではなく、死のなかにも光と闇、陰と陽は存在しているということを静かに教えてくれる。
僕らは日常生活の中でその陰(かげ)の部分ばかり見てしまうけれど、死のなかにも陽のあたる場所はあるのだ。
それは父や母、祖父や祖母から目に見えない形で手渡されてきたバトンのようなもので、今、僕のこの手の中にもしっかりと握られていることを知る。
この本の一つ一つの物語は、工藝の世界を通してその見えないバトンを形に現そうとする人々の物語だ。
そこでは無という沈黙のなかに、悠久より続く日向の音が鳴っている。
少しだけ、その音に耳を澄ませてみたい。

クロヌマタカトシさん
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