竹かんむり小話

稲垣 尚友

番外編 1200分の1

2021.04.26

「人間の運ちゃあ、分からんもんですよ」
半田さんが、そうわたしに電話口で語った後に続けて、

「ナオ(わたしの通り名)に、もっと早はように会(お)うとれば良かった」
と、急に砕けた口ぶりになった。

「半田さん、今からでも遅くないよ」
わたしが咄嗟に、そう答えた裏には、半生記前の島での出逢いを引きずっていた。

わたしが二十二歳のとき、何をして暮らしていけばいいのか分からず、その不安を取っ払いたいために、ひたすら歩いた。
歩き疲れたなら、きっとよく眠れるだろうという単純な動機からである。
一日に四十キロ歩くことも稀ではなかった。
文字から遠い世界へ誘われていた日々である。
そうした延長上でトカラ諸島の中之島というところに辿り着き、路銀稼ぎのために製糖工場の人足となったのである。
半田さんはその工場に原料である砂糖黍を納入する開拓農家のひとりであった。

半世紀以上前の島は物が乏しく、誰もが自らの手で家を建て、道を造り、船着き場を築いていた。
皆は分かち合うこと、助け合うことを知り、貧しくとも笑顔が絶えない。
わたしはそうした精神の輝きに圧倒され、知らずの内に、島の人と文字を共有したいという欲が湧いてきた。
島のあれこれを孔版原紙に刻み、それを謄写印刷して、たこ糸で綴じて数十部の冊子を作り、島民に配り続けてきた。
そういう下地が顔をのぞかせたのであろう。
半田さんの生きてきた軌跡を手書きでも何でも良いから、文字として残そうと思い立ったのである。
電話を受けたころのわたしは、関東の地で竹細工をしながら暮らしを立てていた。

島通いをしながら半田さんの話を聞くことになったのだが、どの話にも惹きつけられた。
並はずれた記憶力にも圧倒されたが、何よりの迫力は文字を媒介としないナマの語りにであった。

半田さんは太平洋戦争も末期にさしかかつた1944年(昭和19年)フィリピンへ出征している。
佐世保港から8500トンの船に3500人の兵が乗りこんで南下する。
台湾までは無事に辿り着く。
甲板を洗うような大シケを押して、フィリピンのルソン島へ向かう。
その途中、米軍の潜水艦から魚雷を二発撃ちこまれて船が沈没する。
兵たちは漆黒の海に投げ出された。

三千人を超す兵が、船の起こす渦に呑みこまれて海底へ沈んでいく。
半田さんは奇跡的に渦潮に巻き込まれないで海上を漂うことができた。

「もう大丈夫じゃ、ち船を眺めたら、闇夜の中で徐々に沈んでいった船が、真っ直ぐ立ったかて思うたならば、いっぺんにスーッと沈んで、海が真っ白うなった。
船長や退船命令を吹いとったラッパ手がどうなったか、船と共に沈んだのか、全然分からんですよ。」

しかし、救助船が来るわけでもない。
長尺の板にしがみついた数人と漂っていた。
腹が減ってたまらない。
タマネギが流れてくる。

「これじゃあ、しめたもんじゃあ、て……。とてもじゃないが食えん、塩辛くて。
今度は白いものが浮いてくる。
見たら豚肉の白身。
口に入れて引っぱったつて、切れるもんじゃない。
それで投げた(捨てた)。
考え直して、泳いで行って白身を捕まえて、体中に塗ったくった。
脂じゃから、体に塗れば寒さが凌げるじゃとうって思うて」

そう言った後、ヤンチャな少年のように笑う。

三日目の夜、腹は減る。
眠くもある。
寝てしまえば死が待っている。
そのときは長尺の板には、他にふたりが生き残ってしがみついていた。
互いが殴り合いながら相手を眠気から呼び覚ます。

運は分からないものである。
灯火を消した船が近くを通りかかる。
大声を出して助けを求める。
日本軍の駆逐艦であった。
救助されて、三人を近くの島に運んでいく途中で、また魚雷にやれてしまった。
また助けられる。
ルソン島に上陸してからも奇蹟の連続が続き、戦火をくぐり抜けて半田さんは生き延びる。

半田さんは最下層兵の二等兵として、こき使われる立場にあった。
最底辺から軍隊を見る目は、いかなる面子も不要であり、戦争責任を負わされていないから、将校たちには決して見えないものまで凝視することができた。
制空権も、また、マニラ周辺海域の制海権もマッカーサー率いる米軍に握られているから、ルソン島の北部まで山中を徒歩で行き、そこの港からビルマ(現ミャンマー)のインパールへ転戦することになった。
行軍中に兵士がバタバタと倒れる。
食糧不足と疲労が原因であった。
死に逝く兵が身につけているモノで必要なものがあれば、元気な者が使ってよいという約束事ができていたから、

「軍靴が良いモノだつたら、どうせ相手は死ぬんだから、黙ってはぎ取っていく。
取られる方も観念しとるから、何も言わんが、飯盒だけは手放そうとしない兵が居った。
死ぬと分かっていても、生きている間は、飯を炊いて食おうという本能で、空の飯盒を抱えて離さない姿は今でもわすれられん」

と言うときの半田さんは笑わない。
半田さんは軍隊のあさましさを垣間見ながら、人間の本性を見抜くことにも意を注いでいる。
同時に島で暮らしていた時の知恵を活かしながら、生きていく。
軍靴が無くなれば、丈夫な草を見つけてワラジを編み、腹が減れば、どの草や木の実が食べられるかを知っている。
それを知らない兵のなかには、食べた木の実がもとで中毒死する者もいた。
上官は半田さんのことを「千二百分の一」の渾名で呼んでいる。
同期で入営した船舶工兵が千二百人いたが、その中の数少ない生き残りという意味である。 

一年余の捕虜収容所暮らしを経て,日本へ復員するのだが、自宅へ戻る復員列車の中での会話は、ついさっきまで、死ぬか生きるかの戦場にいた人とは思えない伸びやかさがある。
自分の前に座った年長者に、

「おまえらが征ったから、戦争に負けたんじゃ」

と言わせたあと、共に笑っている。
それほど心を開いている人でもある。

半田さんの証言を一冊にまとめたのだが、タイトルが思いつかなかった。
兵士としての日常を語っているはずなのに、徴兵検査を受けた後、終戦後に復員するまでの間の話に段差がない。
兵士ではあるが、戦場の漂流者でもあった。

弦書房 → click


Writer

  • 稲垣 尚友
  • 稲垣尚友
  • この欄を担当することになりました稲垣尚友です。
    房総半島南端の街・鴨川の山中で竹カゴを編んでおります。
    修行をしたのは熊本県の人吉盆地の奥、市房山のふもとに近い錦町です。
     
    カゴ編みを生業とする前は、トカラ諸島の島々のひとつである平島(たいらじま)に住んでおりました。
    全島を覆うようにして、琉球寒山竹が植わっています。
    島ばかりでなく、あちらこちらと巡っているなかで見つけた仕事が竹細工です。
     
    現在は、竹という素材が暮らしのなかではあまり目立ちませんが、
    竹に関する資料は膨大で、竹冠の付いた漢字がポケット判『新字源』(角川書店刊)ですら、160あります。
    さらには、日本人が編み出した国字といわれる文字にもあります。
    よく目につく「笹」もそのひとつです。
    中国大陸で発行されている大字典には千近くあるそうです。
     
    竹冠に関する語のひとつひとつからは、永年にわたる人びとの暮らしぶりが伝わってきます。
    そうした、暮らしのなかでの竹の話を始めようと思います。

  • もっと読む

メルマガ登録