竹かんむり小話

稲垣 尚友

筅(ささら)

2020.01.30

——  長嘯(ちょうしょう)の 墓もめぐるか 鉢(はち)叩き  ——

これは松尾芭蕉(1644−1694)が詠んだ句である。
鉢叩きとは、空也念仏を唱えて歩く集団で、半俗半僧である。
洛中、洛外を勧進して歩いた。空也は平安時代中期の天台宗の僧で、庶民の中にあって、念仏をひろめ歩いた人である。
また特異な点は、民の暮らしの手助けを率先しておこなった。
難所があれば岩を削って平坦道にし、橋を架け、井戸を掘る。
病人がいれば、茶を煎じて平癒を祈った。
そんな功績をたたえて、空也堂が建立され、年の暮れには空也祭がおこなわれる。
四十八日に及ぶ祭の間、鉢叩きたちは、瓢箪を竹や木の枝で叩きながら、洛中洛外の墓所や葬場を、勧進しながら巡って歩いた。
常日ごろは竹を裂いて茶筅を作ることを仕事としている人たちである。
作ったものは年の暮れに売り歩いた。
また、墓守や埋葬、ときには医療行為もおこなって、糊口をしのいだのである。

西暦1500年ごろに描かれた『七十一番職人歌合』に載る鉢叩きの絵から推察するならば、鉢叩きは自分の背丈以上もある長い杖を持ち歩いている。
先端には鹿の角がくくり付けてある。
こうした異形の遊行者を土着の民はどう見ていただろうか。
寺を持たない鉢叩きはどこに宿をしているのか、山裾の木陰でそっと身を寄せ合って夜露をしのいでいるのかもしれない。
村人たちにとっては近寄りがたくもあり、鉢叩きに浴びせる視線は冷ややかでもあった。

そうしたもの悲しい鉄鉢や瓢(ふくべ)を叩く音に心を寄せた人がいる。
木下長嘯子(ちょうしょうし)である。
豊臣秀吉の正室である北政所(きたのまんどころ)の甥にあたり、早くから秀吉に仕え、19歳で龍野城主になっている。
現在の兵庫県西南部に築かれた城の主である。
しかし、出世は関ケ原の戦における不始末で終わった。
伏見城を敵方に明け渡してしまった罪で所領を没収され、隠棲する身となる。
数え年32歳のときである。
が、長嘯子が花開くのはその後である。
宮仕えから解放された身は、文人墨客との交流を盛んにした。
生来の資質もさることながら、思うままの心を詩情に託す技が磨かれていく。
武人としての暮らしを捨て、遊行の身ともなれば、鉢叩きの音色に響き合うものがあったのだろう。

—— 鉢叩き暁方(あかつきがた)の一声(ひとこゑ)は 冬の世さへも 鳴くほととぎす  ——

こう詠んだ長嘯子の心を鉢叩きの側でも敏感にくみ取ることができた。
80歳の長寿をまっとうした先達を、鉢叩きは親しい気持ちで墓参りを欠かさない。
芭蕉は鉢叩きの鳴らす鉦や瓢の音を聞きたくて、空也祭に間に合うように京にやって来たのだが、なかなか聞こえてこない。
きっと長嘯の墓参りをしているからだろうか、と待つ身のもの寂しさを、本文の冒頭に掲げた句に詠んでいる。

所変わって、現在の山口県を領地としていた長州藩では、「茶筅(ちゃせん)」の語が竹細工職人を意味するようになった。
同州では、カワタ、あるいは、カワヤと呼ばれた人もいて、獣皮で武具を作っていた。
武家社会ではなくてはならない職業であるから、弊牛馬(へいぎゅうば)といって、倒れた馬や牛の処分権を与えられている。
他の町人同様に、城下に住んで、祭の当番も引き受けていた。
つまり、他職と同じように、市民権を与えられていたのである。
そうしたカワタが、徳川の時代に入ってからすぐに、集団移住させられたのである。
慶長9年(1604)3月3日という、はっきりした日時まで『防長風土注進案』という本に記録されている。
賤業職人として扱われるようになった日である。
為政者の目論見は、農民を手なずけるためには、さらに下層民を置くことで、不平不満解消の一助にしたことと、逆に、農民一揆が起きた場合に、賤民を使って農民の捕縛に当たらせた。
日ごろ農民から蔑視されている賤民であるから、その検察行為は容赦がない。 

長州の東方に浅野藩があるが、その支藩である三次(みよし)藩では、竹細工職にも警察行為をやらせるのだが、その時には帯刀を許している。
この藩の差別政策は徹底していたこともあって、明治時代に身分解放の運動を起こした水平社は、この地に生を受けた人が興したのである。

長州には垣ノ内という地名がいくつかあるが、これは被差別集落を竹で囲った名残りである。
一般に、竹垣で屋敷を囲うときには、先ず、数㍍の間隔を取って杭を土中に打ち込む。
この縦杭は木を使う場合もある。その次に横に青竹を渡して、杭に結びつける。
横竹の間隔は30センチから50センチぐらいではなかろうか。
竹は杭の外側に3段に結ぶ。
これが農民層の家の竹垣である。
ところが、賤民の家は、横竹を杭の内側に結び、しかも4段にする。
杭の内側に横竹を結ぶということは、その屋敷を囲い込むことを目的としている。
屋敷主が自分の敷地に外部から侵入する者を阻止するためのものではない。
周囲の者が、竹に備わっている浄化力で賤職を閉じ込めることを狙っての策である。
段数の違いは目印程度であろうか。

竹には浄める力も備わっている。
たとえ、近代の最先端をいくような高層ビルでも、地鎮祭という儀式をおこなう。
竹笹4本を地に立てて結界を作り、その中に祭壇を設けてお祓いをする。
地を浄めるためである。

筆者がかつて住んでいたトカラ諸島のひとつである平島では、神役がお祓いをするときも、汚濁にまみれたものを浄めるときも、竹笹を使う。
清浄な海水、これを潮(しお)というが、潮に浸した笹をシオバナと言い、これを、神主が御幣を左右に振る仕草をして、浄める。
家を建てるときも、あるいは、病に伏している体から病魔を払い除けるときも、シオバナは無くてはならない神具である。
船も通わない時代には、治癒する力が笹にあることを信じて人は暮らしていた。
現在は、定期船が週に2度通っているし、急患が出た場合には、ヘリコプターが鹿児島本土から飛んでくるので、シオバナだけに頼っているわけではない。 

話を長州の茶筅に戻すと、幕末には藩兵として徳川官軍と戦う事態になった。
高杉晋作という長州藩士が、兵力不足を補充するために、農民を動員して奇兵隊というものを組織する。
その中に茶筅隊というものが混じっている。
「茶筅」たちは身分解放を約束されて、勇猛果敢に戦ったのだが、そして死者まで出したが、約束は反故にされた。


Writer

  • 稲垣 尚友
  • 稲垣尚友
  • この欄を担当することになりました稲垣尚友です。
    房総半島南端の街・鴨川の山中で竹カゴを編んでおります。
    修行をしたのは熊本県の人吉盆地の奥、市房山のふもとに近い錦町です。
     
    カゴ編みを生業とする前は、トカラ諸島の島々のひとつである平島(たいらじま)に住んでおりました。
    全島を覆うようにして、琉球寒山竹が植わっています。
    島ばかりでなく、あちらこちらと巡っているなかで見つけた仕事が竹細工です。
     
    現在は、竹という素材が暮らしのなかではあまり目立ちませんが、
    竹に関する資料は膨大で、竹冠の付いた漢字がポケット判『新字源』(角川書店刊)ですら、160あります。
    さらには、日本人が編み出した国字といわれる文字にもあります。
    よく目につく「笹」もそのひとつです。
    中国大陸で発行されている大字典には千近くあるそうです。
     
    竹冠に関する語のひとつひとつからは、永年にわたる人びとの暮らしぶりが伝わってきます。
    そうした、暮らしのなかでの竹の話を始めようと思います。

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