竹かんむり小話

稲垣 尚友

2020.09.10

「籠る」は「こもる」と読む。
「身籠る」といえば胎児をお腹に抱えている妊婦の様を表している。
「籠城」であれば、敵に包囲された城の中に立てこもることをいう。
なぜ竹冠の文字が作られたのだろうか。

時代考証を追い求めた書に『歴史考証事典』(稲垣史生著)というのがあって、
それによると、平安時代の寝殿はだだっ広いばかりで使い勝手が悪く、そこで造りの一隅に四方を土壁で塗り固めた部屋を用意した。
この造りを「塗籠(ぬりご)め」という。
わずかな出入り口が一、二箇所あるだけだから密閉度も高い。
利用法も多岐にわたり、留守居(るすい)を使うときに隠れる場であったり、誰にも邪魔されずに惰眠をむさぼるときにも使った。
後には恋する人との逢瀬の場にもなる。
より日常の暮らしに密着した用法としては納戸として使われた。
構造が土蔵に似ているところから、「どぞう」と呼ばれたこともある。
隠し妻のことを籠妻(こもりずま)と呼ぶのも、塗り籠め部屋の延長上の命名法なのだろうか。

この工法が具体的にはどのようなものであったのか、日本人の残した記録だけではその全容がわからない。
日本滞在が三十五年に及んだポルトガル人の書いた文章のなかに、工法の片鱗を垣間見ることができる。
ルイス・フロイスという人が『日本史』という書物の中にしたためている。
この人はイエズス会の布教師が、フランシスコ・シャビエルよりも11年遅れて来日している。
28歳のその日から65歳で長崎に客死する間、膨大な記録を残している。

十六世紀終わり近くの日本の為政者は豊臣秀吉であった。
秀吉は南蛮貿易の利に目をつけ、イエズス会に近づいた。
新装なった大坂の城の内部をルイス・フロイスに見学させている。
フロイスは城の内部をつぶさに見て回り、壁の細工にも触れている。

「・・・これらの建物はすべて木材が用いられ、壁は、支柱の間に幾本もの太い竹を仕組み、その上に粘土をかぶせ、さらにその上に白く漆喰を塗る。
それは内部からも外部からも施されるので、外見においてはあたかもヨーロッパの建物のようであり・・・」とある。
(『日本史 1』松田毅一・川崎桃太訳 中央公論社)
太い竹が、竹垣を組む要領で、土壁の内部に埋め込まれている。
この技法は民家の土壁を造るときと同じである。
ただ、使われる竹の太さが違う。
民家の場合には細い竹を半割りか四つ割にして使う。
この竹をコマイと呼んでいる。

わたしは、茅葺き屋根の骨組みに使われている煤けた竹が欲しくて、茅屋根の解体を手伝う機会が多かった。
解体作業をしていて毎度驚くことは、木組みの技術の奥深さである。
また、建造年代を遡るほど、柱が細く、同時に土台が頼りない。
それでも狂いが少ない。
そんな頼りなさをあざ笑うかのように、見上げる屋根裏の梁はどの家も太い。
土台石が土中に沈んでいても、柱が梁からぶら下がっている格好のものもある。
また、鴨居の上に組み込んである欄間や土壁が筋交いの役を代行していて、家の歪みを防いでいた。
竹を土壁に埋め込むことで、壁が剥がれ落ちるのを防ぎ、同時に狂いを食い止めていたのだった。

現在の建築ではコンクリート製の壁や柱を造るときには、棒状の鉄を縦と横に渡し、十文字に重なった箇所は細い針金(これを結束線という)で結んでいる。
組まれた鉄筋の周囲を枠で囲み、上からコンクリートを流しこむ。
このようにして鉄筋コンクリート製の柱や壁や土台ができあがる。
秀吉の城は鉄筋の代わりに竹を使っている。
さしずめ「竹筋(ちっきん)土壁製」といえるであろう。

太平洋戦争中、日本の軍部は軍艦を建造したがために、鉄不足を補うために庶民の鍋釜や、寺の鐘を徴発した。
そんな理不尽な軍の求めにつき合わなければならない庶民であったが、暮らしを立てなければならない。
川があれば橋を架け、鉄道も通わさなければならない。
そこで活かされた知恵が「竹筋コンクリート」であった。
鉄筋に代わって竹を使うのである。
現在でも、国内のあちらこちらに当時の建造物が残っている。
有名になったのは熊本県北部の小国町を走っていた旧宮原線の鉄橋ならぬ「竹橋」である。

なぜ竹がそんなに耐久性に富んでいるのかと不思議なくらいである。
しかし、身近な鉄や竹を観察してみると、意外と簡単にその謎が解ける。
鉄は錆びて土に帰る。
同じように竹も土に帰る。
しかし、大気に触れなければ解けて土に帰る時間が長大になる。
昭和五十年代の前半であったが、水戸徳川の時代に築かれた備前堀の改修工事が水戸でおこなわれ、そのときに堀底から青々とした竹が掘りだされた。
また、当時はどの農家も身近に造っていたのだが、刈り入れ後の田んぼを干上がらせる必要から、配水溝を地中深くに這わせた。
現在ではビニールパイプを使用しているのだが、当時は銀杏や松の葉を敷きつめた上に、孟宗竹や真竹を丸のまま埋める工法であった。
こうすれば、絞り水が田の縁から外に流れ出る。
この工法だと百年は利用できる。
もっと長持ちした事例としては、静岡県の狩野川の川底から縄文期の漁具が、製作当時の姿で発掘された。
しかし、先の備前堀の竹も同じことであるが、大気に触れると同時に粉々に崩れてしまう。

「籠」がなぜ竹冠の文字になったのかの問に対する答えを知りたくて、文字学の泰斗である白川静氏の著した辞書を開いてみた。
それによると、1990年前、つまり西暦百年ごろに中国で書かれたの本には、「籠」は「土を挙ぐる器」と書かてあるそうだ。
土カゴなら、日本では土木工事に古くから使われている。
現在でもホームセンターで販売している「パイスケ」がそれである。
カゴの一種であるが、穀物の脱穀作業に使えるような細かい編み方をしていない。
泥を運んだり、石を運ぶときに使う。
荒い細工であるが、丈夫なカゴである。
箕に似せた竹箕(たけみの)という名のカゴもパイスケ同様に土木作業で使う。
竹カゴと箕と共通している点は、モノを包み込むようにして移動させることができる。

「包む」は「籠(こ)める」行為でもある。
越後では正月に瞽女が門付けして巡ってきたときに、玄関口に箕を据えてその中に苗籾を入れておく。
その前で瞽女に宝船を謡ってもらい、その年の五穀豊穣を祈願してもらうのだった。
土壁に竹を籠めるのは、建物の強度を高め、同時に招福行為でもあるのだろうか。

付記
「パイスケ」ってご存知でしたか?
バスケットがなまって「パイスケ」というのだとか。
掲載できる画像を見つけられなかったのですが、検索していただくと出てきます。
とても面白いです。(早苗 記)|
追記
勢司恵美さんから画像いただきました!
ありがとうございます!!


Writer

  • 稲垣 尚友
  • 稲垣尚友
  • この欄を担当することになりました稲垣尚友です。
    房総半島南端の街・鴨川の山中で竹カゴを編んでおります。
    修行をしたのは熊本県の人吉盆地の奥、市房山のふもとに近い錦町です。
     
    カゴ編みを生業とする前は、トカラ諸島の島々のひとつである平島(たいらじま)に住んでおりました。
    全島を覆うようにして、琉球寒山竹が植わっています。
    島ばかりでなく、あちらこちらと巡っているなかで見つけた仕事が竹細工です。
     
    現在は、竹という素材が暮らしのなかではあまり目立ちませんが、
    竹に関する資料は膨大で、竹冠の付いた漢字がポケット判『新字源』(角川書店刊)ですら、160あります。
    さらには、日本人が編み出した国字といわれる文字にもあります。
    よく目につく「笹」もそのひとつです。
    中国大陸で発行されている大字典には千近くあるそうです。
     
    竹冠に関する語のひとつひとつからは、永年にわたる人びとの暮らしぶりが伝わってきます。
    そうした、暮らしのなかでの竹の話を始めようと思います。

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