竹かんむり小話

稲垣 尚友

2020.07.30

わたしが住んでいる千葉県は日蓮の誕生地であり、県内には日蓮宗の名刹がいくつもあるのだが、そのなかのひとつに原木(ばらき)山妙行寺がある。
京葉道路の原木インターを出てすぐの南側にある。
ここでは年に一度、土用の丑(うし)の日に「虫封じ」の行事が行われる。
夜泣きをして親を悩ます子の疳の虫を封じ込めるための行事である。
親子がお坊さんの祈祷を受けた後、唱えてくれた経文紙を竹筒に入れて蓋をする。
それを釘付けにして虫を封じ込めるわけだ。

筒を家に持ち帰り、子どもの虫が起こるたびに、親は金槌で釘を叩く。
たび重なって虫が起こると叩く回数が増え、しまいには竹筒が割れてしまう。
そうすると、翌年に新しい筒と取り替えてくれる。
お坊さんは、竹筒は簡便な収納具であると同時に、その中には目に見えない霊力が宿っていることを知っているのだった。

ハシカがはやったときも竹が登場している。
幕末も押し迫った文久二年のこと、六年後が明治元年であるが、薩摩の藩主である島津久光は藩兵千人余を率いて入京した。
時の「京」は現在の東京ではない。
京都のことである。
薩摩藩が江戸幕府に対して尊皇攘夷と幕政改革を迫るための行動であった。
このとき、すでにハシカが長崎で猛威を振るっているという噂が京にも流れていた。
肥前(現在の佐賀県)の東部では罹災者の三人に一人が命を落としたと言われている。
そのとき、薩摩の藩兵のなかにもハシカに罹っている者がいて、京の薩摩屋敷はハシカ菌の巣となり、初め百人であったものが、またたくまに六百人に膨れあがる。
介抱する側もたいへんである。
水一斗五升(27リットル)を入れた大釜に薬を千服投げ込み、それが18リットルになるまで煎じて、それを床に伏す兵士らに飲ませて回る。

ハシカ菌をまき散らしながらの藩兵の動きは、またたくまに東国にも影響が現れた。
江戸でも死者がでる。
身重の女性の犠牲者が少なくなかったという。
旧暦七月九日と十日に行われる浅草寺の千日詣では人出も少なく、夜店も寂しいものであった。
町々では悪霊神を払い浄めるために、斎竹(いみたけ)を町木戸に立てた。

現在、国内ではコロナ騒ぎのただ中にあるが、防禦策の不充分さは現代の比ではない。
近代に入ってからでも、スペイン風邪の猛威が治まるまでには三年かかった。
天然痘の場合はさらに恐ろしいことになった。

天然痘の場合は、エドワード・ジェンナーの種痘が1796年に初めて行われたのであるが、簡単には撲滅できなかった。
宗教者からは、健康な人に牛痘を植え付けるとは、神の創造し給うたことを冒瀆する行為である。
聖書にも記されていない痘の植え付けは犠牲者に必ず牛の角を生えさせる、
牛痘に効き目があるのは異教徒たちだけだ、と反撃の声を上げた。
せっかくの牛痘の発明であったが、最後の天然痘感染者が報告されたのは1977年まで待たなければならなかった。
種痘の発明から181年が経っている。
二十世紀は戦争の世紀と言われていて、世界大戦だけでも二回あり、戦火に巻き込まれた一般市民も含めて犠牲者が一億人に達しているが、天然痘の戦争犠牲者はその3倍である。

話がそれたが、そんななかにあっても、竹の持つ呪術力と浄化する力を、日本人は肌身から離さなかった。
都会のビル建設の起工式には笹竹の4本を地に立てて結界を作り、そこに祭壇を設けて地を浄める。
わたしが以前住んでいたトカラの島々では、ひときわ念が入っていた。
笹がたわわに付いた竹枝を五十センチほどの長さに切り、その笹を海の潮に浸ける。
めったやたらの海岸線で浸けてもいけない。
シオクンバマ(潮汲み浜)と名付けられたゴミが打ち寄せない波打ち際が用意されている。

潮のしたたり落ちる笹をシオバナと呼んでいた。
浄めの潮が付いた花という意味なのであろう。
そのシオバナはあらゆる場面に登場する。
病床についた人の悪病神を祓い浄めるために、神主が御幣を左右に振る仕草をして、シオバナで病人の体をなで浄める。
そのときの祈祷を受け持つのは、ネーシという名の女神役である。
その場でとなえられる呪文ほどありがたいものはない。
島には医者が常駐しているわけでもないし、また、日ごろは無菌地帯ともいえる東シナ海の離れ島であるから、外から入ってくる病原菌にはことさら神経を使う。
明治時代までは、コレラや腸チフス、天然痘で多くの命を失っている。

旬のタケノコは精力のつく食物である。
そればかりではない。
竹に多くの効能があることは古くから知られている。
竹を火であぶると液汁が浮き出してくる。
この液を「竹の油」とか「竹瀝(ちくれき)」という。
タムシなどの皮膚病に塗布すると効き目がある。
飲用すれば痰の出がよくなる。
肺炎の解熱にもなる。
竹瀝を入れて作った粥は、高血圧によるのぼせを下げ、目の充血による視力の低下を防ぐ。
そこで詠まれた川柳が、

藪医者は 竹の油は 極意なり (『柳多留』四八篇一七丁)

藪医者は病因が診とれなくとも、竹の油さえ処方しておけば、患者に怪しまれないですむのだった。
口さがない庶民は、「竹に油を塗る」と陰で藪医者をからかう。
舌先がよく回り、口先が達者なたとえである。
竹の油を飲んだ記憶がない筆者だが、本文を読んでいて、「舌先が滑っている」と読む人に言われたら、身が縮まる。

 閑話休題。

デカルトという偉い哲人がいて、そのフランス人の考えを学ぼうとしている人が地球上にたくさんいる。
日本では森有正(ありまさ)氏がその一人である。
有正氏がデカルトのことを述べた短い文章をここで紹介したい。

「(コレージュ・ド・フランスの教授であるポール・ミュス氏は)小学校時代の同級生の一人が、百姓を南仏でしていたが、第一次世界大戦が始まると共に戦線に送られ片腕、片脚を失った。
しかし、あらゆる工夫をして百姓をつづけ、天寿を全うして死に、ミュスはその追悼の文章を書いた。
それは自分の意志と理性を極致まで発揮して運命が自分を置いた劇的情況に抗して百姓としての自己を生き抜いた生涯であり、こういうデカルトを一行も読む必要のない人が到るところにいるフランスであればこそデカルトが現れたのだ」と。

いたるところに哲人がいるのはフランスばかりではない。
トカラの島々にもいた。
キラキラとまぶしいほどの輝きがコトバとなり、動きとなってわたしの耳目を潤してくれた記憶がある。
この「手しごとを結ぶ庭」のなかにも「デカルトを一行も読む必要のない人」がいることを知った。 

コトバを持たない息子との10年を日常のコトバで書いた文章がある。
以下は、朝の特殊支援学級へ通う道のりでの親子の心の会話が記されている。

「やっと馴染んできたね、今日の光に。今日という日に」。

息子は嬉しくてぴょんぴょん飛び跳ねる。
ゆきおくんたちが笑う。息子も笑う。
私は胸熱くしてその光景を見ている。

鳥のさえずりにハッとして立ち止まったり、
奇跡的な美しさの枯れ葉を見つけて拾ったり、
ほたり、と綺麗なまま落ちた椿を指の間に挟んで喜んだりする。

白い息を吐き吐き、歌いながら、遊びながら、歩く。

息子が好きそうな曲を適当に選んで歌っていたが、最近は注文がつくようになった。

とん、と鼻をさわれば「真っ赤なお鼻のトナカイさん」
ぴっ、と目をつり目にしたら「こぎつねコンコン」
足をあげたら「トムソーヤのぼうけん」
ねだられれば、何度も歌う。
彼のアクションをとりこぼさないように。
何があっても歌うから、身に付けたその仕草を、どうか忘れないで。

にしむらあきこさん 「冬の日」より
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Writer

  • 稲垣 尚友
  • 稲垣尚友
  • この欄を担当することになりました稲垣尚友です。
    房総半島南端の街・鴨川の山中で竹カゴを編んでおります。
    修行をしたのは熊本県の人吉盆地の奥、市房山のふもとに近い錦町です。
     
    カゴ編みを生業とする前は、トカラ諸島の島々のひとつである平島(たいらじま)に住んでおりました。
    全島を覆うようにして、琉球寒山竹が植わっています。
    島ばかりでなく、あちらこちらと巡っているなかで見つけた仕事が竹細工です。
     
    現在は、竹という素材が暮らしのなかではあまり目立ちませんが、
    竹に関する資料は膨大で、竹冠の付いた漢字がポケット判『新字源』(角川書店刊)ですら、160あります。
    さらには、日本人が編み出した国字といわれる文字にもあります。
    よく目につく「笹」もそのひとつです。
    中国大陸で発行されている大字典には千近くあるそうです。
     
    竹冠に関する語のひとつひとつからは、永年にわたる人びとの暮らしぶりが伝わってきます。
    そうした、暮らしのなかでの竹の話を始めようと思います。

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