竹かんむり小話

稲垣 尚友

櫛(くし)

2020.07.11

福井県若桜町に鳥浜貝塚というのがある。
そこから出土した櫛の写真を目にしたとき、わたしはドキッとした。
櫛は歯が八本しかない。
それぞれが太くて長い。
これで梳(くしけず)ることは難しい。
一本を除いて、途中から折れている。
折れ口が鋭い牙のように尖り、上塗りされた漆が黒光りしているのが不気味であった。

この櫛が何の材で作られているのか、そして何の目的で使われたのかはわからないが、折れ口から感じ取れたのは、強い殺傷力である。
そんなとてつもない思い付きに自分自身が怖じ気づいた。

ことは簡単であった。
イザナギとイザナミ二神が、いさかいの果ての殺傷ざたに及んだことを思い出していたのだった。
『古事記』に出てくるこの二神は兄と妹である。
兄は連れ合いでもある妹(いも)を殺してしまったが、妹のイザナミが恋しくてたまらない。
黄泉の国へ追いかけて行くと、妹は黄泉の国の戸を開けてイザナギを迎える。
イザナギは弾んだ声で、
「いとしいわが妹よ、さあ、帰ろう」
と連れ帰ろうとするが、イザナミは、
「おそれ多く、嬉しいことですけど、黄泉の国の主と話し合つてみなければなりません。
その間、わたしを見ないでしばらく待っていてください」
そう言いおいてイザナミは戸の内へ戻ってしまった。

長い時間が過ぎた。
イザナギは待ちきれなくなって、明かりを灯して暗い殿ヘ入っていくことにした。
何か灯すものはないだろうか。
左のミズラの髪に刺していた櫛の歯を一本折ってそれを灯し、殿内に入る。
闇に浮かび上がったのは、腐乱が始まった醜いイザナミの姿であった。

イザナギは恐ろしくなって、横たわるイザナミに背を向けて逃げ出す。
その時、背後から
「わたしに恥をかかせましたね!」
と、妹(いも)イザナミが、爛(ただ)れゆがんだ顔に怒りをたたえて追いかけてくる。
黄泉醜女(しこめ)にもあとを追わせた。
イザナギは逃げても逃げても追ってくる女たちに向けて、頭に巻いていたカズラを投げつける。
それでも追いかけてくる。
今度は右のミズラに刺していた櫛の歯を引き折って後ろに投げ棄てると、すぐにタケノコが生えてきた。
醜女たちがそれを食べている間に逃げる。
しまいには、イザナミ自身が追いかけてきた。

逃げるイザナギは大岩で道を塞いぐと、背後から追うイザナミは怒りにふるえながら、
「いとしいわたしのあなた様よ、これほどひどい仕打ちをなさるなら、わたくしは、あなたの国の人草(ひとくさ)(人間)を、一日に千人殺してしまいますよ」
イザナギも負けずに、
「お前がそうするというなら、わたしは、一日に千五百の産屋(うぶや)を建てよう」と、やり返す。

 
わたしが折れた櫛の歯先に強い殺傷力を感じたのは、記憶の中で物語全体を自己流に組み立てた結果であった。
二神の葛藤物語が教えてくれたものは、ミズラに刺してあった櫛が竹製であったことがわかる。
次にカズラであるが、これにはあなどれない霊力が備わつているという考えが尾を引いているようだ。
奈良時代に書かれた『播磨国風土記』に次のような記述がある。

景(けい)行(こう)天皇が妻問いに下って、摂津の国の高瀬の渡し場(現在の枚方市周辺)まできて、この河を渡ろうと思って渡し守に対岸へ渡して欲しいと頼んだ。
すると、渡し守は、
「私は天皇の贄人(めしつかい)などではない」と断る。

天皇は
「朕公(あぎみ)(親愛なる貴君よ)そうではあろうがぜひ渡してくれ」と懇願する。

渡し守は、
「どうしても渡りたいと思うなら渡し賃を賜りたい」と、当然の申しでる。
天皇は頭に巻きつけていた、鉢巻き代わりのカズラを取り、舟のなかに投げ入れた。
すると、そのカズラがさんぜんと舟一杯に光り輝いた。渡し賃を得た渡し守はすぐさま舟を出す。

ここに出てくるカズラはカゴやザルの縁に巻く植物の蔓(つる)である。
丈夫であり、なかなか切れたりしない。それで、四国の徳島ではこの蔓を利用して吊り橋を架けている。
カズラには生命力があり、邪気を払う呪力まで備えている。

イザナギは、そうした力を借りて醜女を追い払わんとした。
同様に、竹製の櫛にも超自然な働きをする霊力が備わっていたものと思える。
しかし、鳥浜貝塚から出土した櫛は竹特有の直線が見当たらない。
漆を何度も重ね塗りしてあるとみえて、下地が確認できないのが残念である。
「櫛」は確かに竹冠の字であるが、同時に木編も付いている。
写真からは材質が何であるか分からないが、肉太の歯は梳(くしけず)るには不向きな作りである。

「櫛」と「串」は語源が同じである。
細長くて、物に刺す道具である点で共通している。
古代には焼き鳥屋はなかったであろうから、食器として使われていたかどうかはわからない。
また、櫛は髪の毛に刺すわけだが、梳(くしけず)るための具である必要はなかった。
装身具として使われたのだろう。

わたしも竹で櫛を作ったことがある。
東シナ海に浮かぶ島で暮らしていたころの話しであるが、大時化の翌朝は決まって海岸に出た。
大波が思わぬ贈り物を届けてくれることを知っていたから、日ごろになく早起きをするのだった。
漂着物を列挙したら切りがないが、大きなものでは長さが十メートル以上あるラワン材であったり、小型漁船であったりする。
それぞれの使い途があり、ラワンは大鋸で挽いて家造りの材料にする。破船からは厚板を剥がして、便壺の囲いにする。
板に厚みがあるから、臭気が外に漏れにくいのだった。

小さいもので面白いのは、長さが五センチほどの円筒形のビンに入った文書であった。
中国語で書かれていたので、全文を理解できなかったが、台湾が大陸向けに流したアジビラであった。
ビンが大陸沿岸方向に流れないで、北上する黒潮に乗ってしまったようだ。

話が漂流物拾いから少し離れるが、この黒潮の流れは想像を絶するエネルギーをたくわえている。
今から11年前になるが、大量の流木が屋久島や種子島流域を覆い、鹿児島と屋久島間に就航している高速船が10日間にわたって欠航したことがある。
これはそのひと月前の台風で大被害を受けた台湾の山林から流れ出た材木である。
河川によって海に押し流された後は、フィリピン北部のバシー海峡近くで発生する黒潮に乗って、トカラ沖を漂いながら九州本土の南端の沖を埋め尽くしたのだった。

話を戻すと、ビンが打ち揚がった浜で竹筒も拾った。
網の縁に結ぶウキとして使われていた可能性がある。
というのは、竹の表皮が丁寧に剥(む)いてあったからだった。
前回の「筏」の話でも触れたが、皮を剥くと割れにくくなる。

拾った竹は太かった。
見ただけでは真竹(まだけ)でもないし、孟宗(もうそう)竹でもない。
竹を家に持ち帰ってから人に聞いたならば、大名竹だろうとのことだった。
割ってみるて驚いたのは肉厚なことであった。
根元に近いところは無論だが、かなり上の方まで、三センチほどあった。
どんなに太い孟宗竹でもその半分の厚みしかない。

この竹で最初に細工したのはコーヒーカップである。
厚い部分を刳り抜いて手を付けることができた。
次に櫛である。
鳥浜古墳の出土品の形をしていて、歯の数が倍あり、しかも一本一本が細くて短いから、梳ることができる。
これに漆を塗って土中に埋めておけば、後世の考証家が「時代を突きぬけたすぐれモノ」と、歓喜雀躍するかもしれない。
でも、六千年前のものと現代ものとの時間差はすぐに判明してしまうだろうから、やめることにした。                     


Writer

  • 稲垣 尚友
  • 稲垣尚友
  • この欄を担当することになりました稲垣尚友です。
    房総半島南端の街・鴨川の山中で竹カゴを編んでおります。
    修行をしたのは熊本県の人吉盆地の奥、市房山のふもとに近い錦町です。
     
    カゴ編みを生業とする前は、トカラ諸島の島々のひとつである平島(たいらじま)に住んでおりました。
    全島を覆うようにして、琉球寒山竹が植わっています。
    島ばかりでなく、あちらこちらと巡っているなかで見つけた仕事が竹細工です。
     
    現在は、竹という素材が暮らしのなかではあまり目立ちませんが、
    竹に関する資料は膨大で、竹冠の付いた漢字がポケット判『新字源』(角川書店刊)ですら、160あります。
    さらには、日本人が編み出した国字といわれる文字にもあります。
    よく目につく「笹」もそのひとつです。
    中国大陸で発行されている大字典には千近くあるそうです。
     
    竹冠に関する語のひとつひとつからは、永年にわたる人びとの暮らしぶりが伝わってきます。
    そうした、暮らしのなかでの竹の話を始めようと思います。

  • もっと読む

メルマガ登録