竹かんむり小話

稲垣 尚友

筍(たけのこ)

2020.01.17

先ず初めに説明しておきたいのは、竹類にもいくつかの呼び名があり、種類も多いということ。
身近な呼称としては、竹と笹と英語のバンブーとがある。
一般的にはどのような見分け方をしているかというと、竹の成長段階で、竹皮が剥がれ落ちるのを「竹」と呼び、成長しても剥がれない類いを笹と呼んでいる。
ただ、やっかいなことに、メダケやカンザンチクのように「竹」の字がついていても、笹の類に入るものもあれば、オカメザサのように「笹」の字が付いた竹の類も存在する。

また、バンブーであるが、これと「竹」とのはっきりした違いは、前者は株立ちであるが、後者は地下茎を張りめぐらしている。
だから、バンブーがどんなに太くて丈があっても、竹林の中を通り抜けることはたやすい。
逆に竹は地下茎が一面に這っているから、人が通り抜けるのには苦労が多い。
この欄で、何の断りもなく「竹」と表記するときは、竹類一般を内容としている。
第一回目は食材としての竹を取り上げたい。

タケノコは春を告げる食材として、人びとに親しまれている。
どの竹が美味であるかは、さまざまである。
春一番を告げるのは孟宗(もうそう)竹のタケノコである。
しかし、甘味があるのは、それより二、三ヶ月遅れのマダケかハチクであろう。
缶詰にして市場に出回るのはハチクがほとんどである。
タケノコの缶詰は海外でも手に入れることができる。
それで、ドイツの人であったが、来日して竹が建材に使われていると知って驚いた人がいた。
また、逆に、竹が食材になることを知らなかったために、裁判官の裁定を仰がなければならない事態にもなっている。

その話というのは、太平洋戦争の終結直後のことである。
日本が敗戦した年が1945年であるが、その翌年以降、占領軍の主導で農地解放が実施された。
小作人と地主との間で、竹藪が山林なのか畑なのかが争われた。
小作人の主張は、竹藪は畑と同じで、管理をして施肥をするのだから、畑作と変わらない、と言うのだった。
この場合の竹藪は竹林と言い換えてもいい。
畑作であるから、入念な手入れが必要である。
その畑を芋畑と区別するために、タケノコ生産のための孟宗竹の畑を「ハタハタ」と呼んでいた。
そうした竹林は農地であるのだから、小作人へ解放すべき土地であるとの裏付けもしている。
これに対して地主が言うには、竹は昔から樹木扱いされていて、多年生であり、竹のようなものは畑の作物ではないと反論した。
裁判官の裁定は、タケノコという野菜を目的として栽培管理しているハタハタは、若芽の採集を目的として栽培するアスパラガスと同様の農地であるから、農地解放の対象になるとした。

食材となるのはタケノコばかりではない。
竹は結実するのだが、その実も食材になる。
竹はイネ科の植物で、米に似た実がなる。
この実の呼び方であるが、広い地域でジネンゴの名前が付けられている。
現在、日本中で常食している米粒とは一見して形の違いが分かる。
実が細長い。
さらに大きな違いは、竹実は毎年できるわけではない。
竹の種類によって結実年は異なるようだが、はっきりした周期はわからない。
マダケだと六十年、ないし六十一年に一度の割合で結実すると言われているが、これも確かな数値ではない。
竹にかかわる研究者が日々研鑽を積んでいるが、いまだはっきりしたことがわからない。

この竹笹の実には多くの方名をもっている。
『広辞苑』(岩波書店刊)にはジネンゴの名で載っていて、「自然秔」の漢字が当てられているが、他には竹米、竹麦、笹小麦、野麦などの名がつけられている。
麦の味に似ているという人もいる。
飛騨から信濃へ抜ける峠道には、笹の実がよく稔ったので、野麦峠の名がついたそうだ。

ジネゴと呼ぶ事例も多い。
わたしの住んでいた平島を含めて、トカラの島々ではジネゴと呼んでいる。
また、「ジネゴ」が地名になっている所もある。
秋田県の鳥海村(現、由利本荘市鳥海町)に「笹子」と表記されている地名があり、これをジネゴと読ませている。
中世以降の郷村名であるが、明治に入ってからは村名として使われていた。
また、村内には笹子川が貫流していているが、こちらはササゴガワの呼称になっている。
ジネゴ村は野麦峠と同じで、山中で竹笹の実が採れたのであろう。
この実は何十年も保存が効くので、凶作年の救窮米となった。
だから、新潟県の一地方では飢饉の年は、「弘法大師さんのお恵みによって笹の実がなる」という伝説があるそうだ。

このように、竹の開花が瑞祥(めでたい知らせ)であると受け止めた時代があって、家紋にも竹笹がデザインされている。
平安時代には、鳳凰と竹の紋が流行したことがある。
また、東北の伊達(だて)家の家紋は竹に雀紋である。
1615年夏の陣では伊達勢が、この紋を染め抜いた旗を立てて豊臣方に攻め入る屏風絵が遺されている。
そんなめでたい竹笹の実であるから、歌にもなっている。

福島県の会津に「〜会津磐梯山は宝の山よ 笹に黄金が なりさがる〜」という詩の民謡があるが、山中で笹実がよく採れた。
時の為政者にとっては、百姓たちから絞り上げる年貢とは別に、臨時収入を得ることができたのだから、歓喜雀躍とまではいかなくとも、ニンマリしたことだろう。

笹実を食していたのは、二〇世紀半ばまでのことで、現在は日常食ではない。
平島では太平洋戦争が終わる前までは食べていた。
ただ、その北隣の中之島では戦後の食料難のときにも食べた。
さらに北に位置している口之島では手に入らなかったので、海上が穏やかな日に、丸木舟に帆を掛けて中之島へ採りに出向いている。
このときの竹実は琉球寒山竹のものであった。

島ではどのようにして調理していたかというと、初めに竹の実をイイナベ(煎(い)り鍋)で煎って、実の水気を飛ばす。
次には、その実を臼に移して、杵で突く。
これは脱穀作業である。
その後、石臼で碾(ひ)いて粉にする。
その粉だけでは、団子状にはなりにくいのでツナギとして、蒸かし芋を使う。
芋を潰して混ぜ合わせてから、それに砂糖を加え、上から熱湯をかけて、団子にして食べる。
食べ過ぎると、のぼせるので、ほどほどにしなければならない。
筆者は、その味を褒めたたえた人には出会わなかった。

それでも、食糧不足の戦時中は、日本の各地で食材としての利用法が工夫されている。
戦争は昭和十六年(1941)十二月の日本軍によるハワイ真珠湾攻撃で始まっているが、半年後の翌年六月には、ミッドウェー海戦を境に負け戦に転じている。
食料も不足がちであり、そんななかで、笹実パンが考案された。
このパンの評判はたいへんに悪かった。
まずさもさることながら、それを食した妊婦の流産や早産があいついだのである。
このとき、竹の研究者である室井綽(ひろし)氏が、その原因は麦角(ばっかく)である、と進言したのだが、時のメディアはその情報をことごとく抹殺した。
兵隊確保のために「産めや増やせよ」のスローガンを掲げた国の方針に抵触するからだった。
問題を起こしたのは、岩手県の食料営団であり、原料に使った実はチマキザサ(笹)であった。
この麦角からは劇薬が製される。
それは、子宮止血剤などであるが、ときには堕胎薬として用いられた。
恐ろしい話しである。

竹の開花が瑞祥であったのは、現在のように竹が全国に分布していない時代のことであり、食料も潤沢には入手できなかったころの話である。
中世までは竹が貴重な用材であったから、勝手な伐採は禁じられていた。
仙台藩の『伊達家文書』にもみられるように、山林管理の面からも、竹や樹木の勝手な伐採を禁じ、違反者には多額の罰金を課した。

マダケやハチクの類は縄文期の出土品の中にも見られるのだが、孟宗竹にいたっては、日本国内に存在すらしていなかった。
中国大陸から九州南端に位置する鹿児島へその苗が渡来したのは十六世紀の終わり、ないしは十七世紀初めであった。
それゆえ、孟宗竹のことを「西洋竹」と呼んでいた地域もある。
『竹の民俗誌』(沖浦和光 岩波新書 31頁)にそのことが言及されている。
孟宗竹は、四百年後の現在では函館の五稜郭まで北上しているが、用材として使える太さと強靱さをそなえた孟宗竹は福島県止まりである。

竹が全国に分布するようになってからは、笹の実が豊富に稔るようになり、人間ばかりでなく、野ネズミが好んで食べるようになった。
笹の実がなる年は野ネズミの大量発生年とも言われるようになる。
トカラの島々では畑に植えた唐芋(サツマイモ)が一本も収穫できないという悲劇をもたらしことがある。
昭和の時代に入ってからのことであるが、ネズミの大群が民家を襲い、乳飲み子を抱えた母親が、床に入っているときに顔をかじられ、そこからばい菌が入って、死にいたったこともある。
母乳の匂いにネズミが反応したのかも知れない。
これは平島の北隣にある臥蛇島でのことだった。
それで、平島で生まれた諺が「子(ね)の年根(ね)も葉も枯れる、明くる丑(うし)年世も良(よ)かろう」である。
平島ではネズミによる死亡事故は見られなかったものの、陽性ともとれるこの言い回しをつかって、疲弊しきった暮らしを吹き飛ばそうとしたのであろうか。
そのネズミ退治にイタチが導入され、現在ではネズミ害を聞かない。

(筆者作 煤竹ハイバックチェア)


Writer

  • 稲垣 尚友
  • 稲垣尚友
  • この欄を担当することになりました稲垣尚友です。
    房総半島南端の街・鴨川の山中で竹カゴを編んでおります。
    修行をしたのは熊本県の人吉盆地の奥、市房山のふもとに近い錦町です。
     
    カゴ編みを生業とする前は、トカラ諸島の島々のひとつである平島(たいらじま)に住んでおりました。
    全島を覆うようにして、琉球寒山竹が植わっています。
    島ばかりでなく、あちらこちらと巡っているなかで見つけた仕事が竹細工です。
     
    現在は、竹という素材が暮らしのなかではあまり目立ちませんが、
    竹に関する資料は膨大で、竹冠の付いた漢字がポケット判『新字源』(角川書店刊)ですら、160あります。
    さらには、日本人が編み出した国字といわれる文字にもあります。
    よく目につく「笹」もそのひとつです。
    中国大陸で発行されている大字典には千近くあるそうです。
     
    竹冠に関する語のひとつひとつからは、永年にわたる人びとの暮らしぶりが伝わってきます。
    そうした、暮らしのなかでの竹の話を始めようと思います。

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