竹かんむり小話

稲垣 尚友

箕(み)

2020.04.13

中国前漢のころであった。
日本では縄文後期から弥生前期にあたる二千年前に、すでに箕を使っていたようだ。
馬王堆一号前漢墓の出土品に籾があり、農具を写した土偶がある。
その具が箕の形をしている。

朝鮮半島でも同じ形の農具が使われていることから推して、中国の稲は朝鮮半島を経由して九州に入ってきた可能性が大である。
その一方で、琉球には赤米が伝わっている。
小豆色をしていて、粒が細長い。
大正時代まで、奄美でもこの米を白米と混ぜて食べていた。

昔、奄美大島西海岸の村・大和浜に三十尋(およそ45㍍)もある鯨が寄ってきた。
その鯨の横腹に、「ネリヤから大和浜の親ノロに」という印判が付いていた。
腹の中に飛び込んでみると、稲が幾カタミィと数知れず入っていた。
肩でかつぐ荷を一荷(一カタミィ)という。
その鯨の背中には、白、赤、黒などのきれいな色をした鳥がとまっていた。
この話を『わが奄美』(海風社 2004年)に書いているのは、大和浜生まれの須磨氏である。
長田氏はノロ(祝女)の家系に生まれである。

このように、南の島には、稲作技術が半島経由ではなく、神々の住む理想郷であるネリヤから、直接渡って来たのだった。
農具である箕を伴っての伝播である。
箕は脱穀作業には欠かせない具である。
その箕は、当然のことなのだろうが、半島経由のそれとは形を異にするモノも含まれている。
ちり取りを巨大にした形の箕が半島経由であるが、奄美や南九州では丸い箕も使われている。
一般にバラと呼ばれている。

これと同形の箕が使われている地を捜し歩けば、稲作がどのようにして南九州にたどり着いたかを確かめることができるのかも知れない。
あるいは、そうした理想郷からの届け物は、黒潮に乗って、ベトナムやタイ、マラッカ、スマトラあたりとの交流を通して、琉球や奄美に伝わったとも言える。

箕の素材は藤の皮、笹、それと、箕の縁をかたどる樹木の小枝である。
他に、桜の皮や蔓類も使う。
竹を使って箕に似せた細工物のことを「竹箕(たけみ)」という。
笹や樹皮をいっさい使わずに、全てが真竹か孟宗竹で細工されている。
竹は笹のような柔らかさがないから、竹箕は穀類をあおる作業には不向きである。
土木工事の現場や耕地で、土や石を運ぶのが主な使用例である。
現在は竹箕に代わって、同じ機能を備えた箕もどきのモノが売っている。
素材は強力プラスチックになっている。

竹細工師と箕作りでは使う道具や材料が違うわけだが、共通点を敢えて探せば、一段と低い階層の仕事と、周囲からみられていることである。
特に、箕作りを仕事とする人にサンカという呼称を付けたりもした。
住所を特定せず、年間を通して漂泊暮らしを続けていた人たちのことである。
サンカの存在は歴史資料に乏しいのだが、その名を全国に広めたのは、三角寛という人のサンカ小説である。
戦前、戦後の一時期にもてはやされた。
また、『サンカ社会の研究』で東洋大学から文学博士号を授与されたこともあるが、現在では顧みる人はいない。
一方の竹細工の歴史は長く、多くの文献も遺されている。

わたしは、熊本県の球磨盆地で竹修行をしていたのだが、カゴ職人に対する蔑みのコトバを聞いたことがある。
球磨盆地の真ん中を球磨川が流れ、盆地を囲むようにして山地が連なっている。
北に五木村が、東には球磨川の源流の山々が連なり、南には鹿児島との境界を成す山並みが発達している。
ある日、師匠の奥さんが顔をほてらせて帰宅したことがあった。
奥さんは、師匠とわたしの編んだ茶摘みカゴを一輪車に積んで、山裾の村に売りに出かけたのである。
途中で酔っ払いに絡まれて「カゴ屋カンジン」と呼びかけられたのがよほど腹に据えかねたようだ。
同じ呼称が箕を編む人に対しても使われる。

盆地入口の人吉市ではその職名に語尾を付けて、「箕作りカンジンドン」とも言われている。
同市出身で、郷土の歴史に詳しい前山光則氏(1947年生)から聞いたのだが、子どものころ、カンジンドンの子弟とチャンバラごっこをして遊んだそうだ。そのカンジンドン家族は橋の下に小屋掛けして暮らしていた。
小屋に立ち寄ると、「これで一緒にオヤツでも買いなさい」と、親からおやつ代をもらったこともある。
子ども同士の付き合いということもあるが、前山少年の側には差別意識があったかどうなのか、あったとしても、希薄だったのだろう。
また、橋の下とはいえ、定住に近い暮らしであれば、近所の人との付き合いも生まれてくることだし、露骨な蔑視は見られなかった可能性もある。

「〇〇ドン」とは「西郷隆盛ドン」と言うときと同じで、「殿」という敬称である。
「勧進(かんじん)」は、そうしたコトバとは真反対の意味がある。
本来の意味は、社寺や仏像の建立・修繕などのために浄財を募ることであるが、「募る」ことが「集める」ことになり、さらには「物乞い」を意味するようになった。
最終的には、「乞食」を表すようになる。
有名な民謡に『五木の子守歌』というのがあるが、あの中に出てくる歌詞に、
「〜おどま、カンジン、カ〜ンジン、あん人たちゃあ、良か衆……」
(〜わたしゃ、乞食みたいな者だけで、あの人たちは、良い身分の人たち……)とある。
「……カンジンドン」の呼称は、階層の低い人を「殿」呼ばわりして、露骨な差別を迂回させつつも、はっきりした蔑称となっている。
なぜ、カゴ屋や箕直しが卑しい職だったのか。
少なくとも、わたしの修行時代までは、「カゴ屋カンジン」の呼称は生きていた。
それだけ、竹が日常の具として需要があったことを意味している。
プラスチック製品が出回ってからは、竹も消え、差別用語も同時に霧消した。

話を「なぜ卑しい職だったのか」に戻すが、竹には薬効があることを人びとは古くから知っていた。
竹を火であぶると、表皮から液汁が浮き出てくる。
この液を後の世の人は「竹の油」とか「竹瀝(ちくれき)」とか名付け、万病の薬として活かした。
タムシなどの皮膚病に塗布すると効き目がある。
また、飲用すれば痰の切れがよくなる。
肺炎の解熱にもなる。
タケノコの栄養価も高い。
江戸期の川柳に、

藪医者は 竹の油は 極意なり (『柳多留』四八篇一七丁)

という句がある。
藪医者は病因が診とれなくとも、「はい、これ飲んでおきなさい」と、竹の油さえ処方しておけば、患者に怪しまれないですむのだった。
竹は万病の薬というだけではなく、万物を浄める力がある。
竹皮で包んだ握り飯が腐りにくい、という事実だけで、古代は竹に霊力すら感じていた。
その時代には竹の繁育している地域は限られていた。
竹は暖かい南の国から伝わってきた植物であり、南九州が最初に竹を暮らしの中に取り入れた地域である。
そんな地の利を活かして、薩摩隼人は巧みに竹細工に励んだ。
朝廷から見れば、竹を自在にあつかえる隼人は、神をも恐れぬ霊力の持主であり、何をしでかすかわからない不気味な存在であった。
為政者にとって、こんな恐ろしい民はいない。
古代だけの話ではなく、江戸徳川幕府も同じように、ビクビクしていた。

江戸中期の将棋棋士に伊藤宗看(そうかん)という人がいる。
将棋所(どころ)という役所があって、将棋の技を以て代々の江戸幕府に仕えていた。
三家が世襲していたのだが、伊藤家もそのひとつであった。
宗看と弟の看寿はまれに見る才をそなえた棋士であった。

弟の看寿の著した『象棋図巧』に載る詰め将棋に「煙詰(けむりづめ)」というのがある。
終盤になると盤上のコマが三つだけになってしまう。
王と王手をかけているコマ、それと突っ張りをしているコマの三つである。
これよりコマを減らしようがない。
コマが盤上から消えるさまが、煙が天井を這い回るようだという意味で名がつけられた。
わたしも、ヘボ将棋に夢中になった時期があるが、難しくてさっぱり分からない。
これを詰める人は同時代人にはいなかった。
そのことが幕府の忌諱に触れて、閉門を命ぜられる。
「かような人間離れしたことをするのは、お上を憚らぬ仕草であって、けしからぬ」というわけである。

古代の朝廷も隼人に対して、「お上をはばからぬ、けしからぬやから」と恐怖心から発した怒りを露わにした。
洋の東西を問わず、ローマ法王の逆鱗に触れた、ガリレオの地動説も同じことである。

薩摩大隅(おおすみ)の地に派遣した地方長官が殺害される事件もあって、朝廷は隼人征討軍を組織する。
総大将には大伴旅人(おおとものたびと)で、この人の子が大伴家持(おおとものやかもち)であり、父子ともども万葉歌人としての名を残している。

朝廷は1万を超える兵員を派遣するが、隼人は簡単には白簱を揚げない。
戦いは長期戦に入り、1年数か月の後に、どうにか決着をつけることができた。
そして、戦後に多数の隼人を畿内へ強制移住させる。
一箇所にまとめて住まわせるのではなく、多くの小集団に分けて分散居住さる。
これは7世紀末のことであるから、今から1300年以上も前のできごとである。

畿内に移った隼人が何をさせられたかというと、竹細工である。
現在、正倉院には天皇の葬儀の際に使う散華(さんげ)の竹カゴが七百枚ほど保存されているが、それらは隼人の手になるものである。
また、葬送の最前列に控えて、狗(いぬ)の鳴き声をする役目がまっていた。
これは悪霊を祓って葬列をとどこうりなく進めるための、欠かせない所作である。
道は邪霊のゆくところであるから、貴人が通る前にそれらを追い祓わなければならない。
「道」の字は「辶」に「首」を添えた字である。
征伐した異族の「首」をかかげて先へ進むことによって、道が開かれるのだった。
隼人の邪霊払いは、異族の首の代わりに、狗の咆哮をもって果たしたのである。

現在も同じ所作が各地の神社で行われている。
祭礼が行われる日、式典が終わると直来(なおらい)の儀がある。
これは神殿から神様を招来して、氏子たちと共に御神酒をあげる儀式であるが、神殿の扉を開けるときには、神主が「オーッ」と、天を仰ぎなが咆哮をする。
扉を開けた隙に悪霊が神殿に入ったら一大事であるから、狗の鳴き声で悪霊を追い祓うのだった。
神様が神殿に戻り、扉を閉めるときも同じ所作を繰り返す。
現代では竹の霊力を体感できる人、あるいは体感を心がけている人は神官だけかもしれない。


Writer

  • 稲垣 尚友
  • 稲垣尚友
  • この欄を担当することになりました稲垣尚友です。
    房総半島南端の街・鴨川の山中で竹カゴを編んでおります。
    修行をしたのは熊本県の人吉盆地の奥、市房山のふもとに近い錦町です。
     
    カゴ編みを生業とする前は、トカラ諸島の島々のひとつである平島(たいらじま)に住んでおりました。
    全島を覆うようにして、琉球寒山竹が植わっています。
    島ばかりでなく、あちらこちらと巡っているなかで見つけた仕事が竹細工です。
     
    現在は、竹という素材が暮らしのなかではあまり目立ちませんが、
    竹に関する資料は膨大で、竹冠の付いた漢字がポケット判『新字源』(角川書店刊)ですら、160あります。
    さらには、日本人が編み出した国字といわれる文字にもあります。
    よく目につく「笹」もそのひとつです。
    中国大陸で発行されている大字典には千近くあるそうです。
     
    竹冠に関する語のひとつひとつからは、永年にわたる人びとの暮らしぶりが伝わってきます。
    そうした、暮らしのなかでの竹の話を始めようと思います。

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